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赤いペガサス(村上もとか)

もともとは少年サンデーコミックス全14巻として発売、90年代に入ってからデラックス版として全6巻で再発売されたモータースポーツまんがの最高峰。特にデラックス版第一巻についていたオビには、わが国のモータースポーツジャーナリストとして頂点にいる赤井邦彦が「自分がヨーロッパでF1の取材を始めた頃に連載が始まったが、目の前で展開される光景とまんがのエピソードがあまりに似ているのに驚いた」と述べている。例えば南アフリカGPで全焼したケン・アカバのマシンを一晩で直すエピソードは、76年の富士で行われた日本GP(正式にはF1世界選手権inジャパン)で日本のコンストラクターが実際に行ったことをベースにしているし、モナコGPでケンが観客の視線から前方で起こった事故を知ったケースも不世出のGPドライバー、J.M.ファンジオ(だったと思う)が実際に50年代のGPレースで起こしたことだ。そもそもテレビ中継もない70年代(この頃放映権はTBSが持っていたが、ダイジェスト版として月に一回程度、2〜3回のGPを放映していただけ。雑誌・新聞メディアもほとんどF1には関心を払っていない.いわば、サッカーの富山県リーグの動向を沖縄人が知るようなものだと思ってほしい)に、これほど詳しくF1を描けるということ自体オドロキだが、それなら単にクルマに詳しい人だけに向けられたまんがだ。だが、これは単にそういうことではない。

世界中にほとんど数人しかいない(連載当時)希少な血液型ボンベイブラッドを持つケン・アカバという日系英国人ドライバーが、過去の別種のレースで起こした事故で数名の観客を死なせてしまったトラウマと、自らの血液が事故で失われた場合死ぬかもしれないという恐怖、そして、異母兄弟である妹のユキに対する複雑な愛情、他のGPドライバーたちに対する一種独特な(奇妙な)友情などを織り交ぜてストーリーは展開していく。

ケン自身は裕福な貿易商の息子として、相当程度恵まれた環境のもとモータースポーツの世界に入っていくが、彼の最初のチームメイト、ロック=ベアードは、腕一本でのし上がったアメリカ人レーサーだった。しかも、彼らの所属するコンストラクター「サンダーボルトエンジニアリング(SVE)」のメインスポンサーであるバートン社の社長は、ロックの個人的なスポンサーでもある。ベアードの婚約者の見守る前で、アメリカ西GP(ロングビーチ市街地サーキット)レース中に、アクシデントによりベアードは死ぬ。そのときケンは猛火の中でもがくベアードを助けようとするが、彼の体を引き出す直前、ケンの体に火がつき、恐怖に震えたケンはベアードを置き去りに逃げてしまう。これに対して実在のドライバー、ニキ・ラウダ(当時フェラーリ)は、葬儀の席上このことを告白したケンに激怒したバートンを「そもそも自分なら助けに行かなかった」とたしなめ、ケンを弁護するが、ベアードの婚約者は納得しないまま別れていく。

例えばこのシーンでも、実際にアクシデントに遭遇したニキ・ラウダのエピソードを適切に引用しながら、ケンに残るトラウマ、その措置が正当であることは理解しつつも感覚として納得のいかないベアードの婚約者、そして現代のモータースポーツがスポンサーに大きく依存することを浮き彫りにするバートンのわがままなど、説得力のあるプロット構成になっており、しかもケンのトラウマがチームの分解危機、あるいは彼のその後の走るモチベーションの説明につながっている点が秀逸だと思う。

宗前自身が一番好きなコマは、彼がベアード死後のスペインGPでフライングのペナルティ60秒加算の重圧に苦しみながら優勝を狙っていくシーンだ。もう少し具体的に言うと、彼があと一歩で優勝を狙える際に、『全力でトップを奪うのだ』とモノローグしながら独特のF1マシンのギアをチェンジして行くシーンなのだが、ここは小さな動作で彼のすばやいマシンコントロール、切迫した心理、もう少しで優勝だという期待感、さらにハッピーエンドに向けて加速していく雰囲気をすべて余すところなく伝えきっている。連載終了から20年が経つ今、何度読んでもこのシーンには背筋を震わせるものがある。これは実写で可能か?実写でムリならアニメはどうか?全部だめだ。宗前がまんがのこのシーンで感じた疾走感は絶対に得られない。

平面的でコマとコマの間に(映画のような)時間の連続性がないまんがだからこそ、平面から浮き上がる読者の想像力、コマとコマの「間」によってかもし出される奥行きという、まんがの味わいをもたらしてくれるからである。

その後彼の名を不動のものにした名作『六三四の剣』『龍』にはない、ほとばしる冷静な情熱を、このまんがでは感じ取ることができる。モータースポーツが好きな人も、そうでない人も、この作品はぜひ一度読んでほしい。観念の遊戯に走り去った小説が目立ち、文学のエンタテイメント性(ちょっと保守的かな、こういうことを言うようでは)が失われた今日、これはもう、現代の大河ロマンといってもいいと思う。