こんにちは。一ヶ月ぶりのごぶさたでした。
さて、「ソーカルのいたずら」について続きを書きましょう。
前回は、彼が正しく引用したにもかかわらず文章としては無意味な内容、しかもSocial Text誌のレフェリーに
とっては意味あるように見えた引用の責任はどこにあるかを指摘しました。
この件について、いろいろな反応があったようですが、クリステヴァなどはかなりヒステリックに
「なにいってんのよ、このカチカチ頭の科学バカが!!」といった反応を返したようです。
相変わらず「知の裁判」とか「検察官」とかナイスなターミノロジーを駆使したみたいです。
一方、デリダはほとんど沈黙を守ったようです。
また、実際に保守的な人が多い科学の側は、内心喝采を唱えつつ
「ふざけて論文投稿しちゃいけないよ、君ィ」といったことを言う人が多いみたいです。
手続き的な不快感とでもいいましょうか。
しかし、ソーカルらが提起した問題の本当の意味は、やはり「比喩の責任」という点に尽きると思います。
私はよく、講義の中で比喩を使います。例の場合もあるし、比喩の場合もあります。
「例」の例
・3人の意思決定過程を分かりやすくするために、昼飯をどこで食うかの決定過程をネタにして説明
「比喩」の例
・極左と極右は行動様式が似ているから、イデオロギーの数直線は円みたいなものだ、と説明
問題は比喩です。比喩は、抽象的だったり現実的に見えにくいことを、直感的に理解してもらうために使います。
先の例でいえば、日本と韓国は隣り合っているけど、東京からサンパウロ、ケープタウン、シンガポール経由で
ソウルに行くようなもんだ、そのくらい相互理解がない、と言ったとすると、なんとなくナットクしちゃいます。
しかし、政治的・文化的距離を、物理的な距離に喩えることはいろいろ問題があります。
物理的な距離の近さは、例えば侵略の容易さにつながるし、交易もしやすいし、その他具体的な局面として
接近があり得るのです。にもかかわらずどうして日韓は遠い(そう感じられる)のか。
学者はそこを分析していきます。飲み屋で酒かっくらって放吟しているレベルのことを申し上げて
教育(一)3級6号棒をもらっていてはいけないのです。
ソーカルたちが問題にしたのは、思想の説明をするのに数学などの比喩を使うのはいいだろう、
しかし、なぜその比喩を使うのか、比喩と現実のズレを意識しているのか、
比喩の比喩の比喩で出た結論をイキナリ現実の世界に戻したりしていいのか、といった
はなはだラジカル(根源的)な問いだったと思います。
彼は、こう言っています。
適切に解釈しさえすれば一定の真実を含んでいた考えは、奇怪な混乱と大げさな凡庸さの入り混じった
ありきたりの話にまで堕落してしまった。【訳本、278頁】
そしてかれらの目指すものは、次のようなものだと結語します。
合理主義的ではあるが教条主義的でなく、科学の精神に則ってはいるが科学主義的でなく、諸々の意見に
開かれてはいるが軽薄でなく、政治的に進歩的ではあるが党派的でない知的な文化が誕生することだ【訳本、280頁】
と。
ポストモダンで使われる比喩と、拙者が使う比喩ではレベルも違うし目的も違うでしょう。
しかし、比喩に溺れると、しばしばウマい比喩、のどごしの爽快感!!に
「ふふっ、今日もいい仕事しちゃったな♪」などという見当違いの満足感を得がちである、という点で
ひとしく注意をせねばならないことにはそう変わりはないのかもしれません。
予備校や公務員研修所で長く仕事をしていて、相手のナットク=相手の支持=いい仕事した達成感、と
ついついなりがちだった僕にとって、久しぶりに反省させられる本に出くわしました。
理系の連中もなかなか、やるな。
よその学問も結構ためになるな。
改めてそう思い、ディレッタントと呼ばれようと、相変わらず経済学やら経営学やらのつまみ食いは続けるぞ、
と決意したミレニアムの秋のことでした。ちゃんちゃん。