先月渋谷の本屋で平積みになっている『オシムの言葉』を買った。この本はオシムに対する敬意とともに、ずっと旧ユーゴを追っている作者の木村元彦に対する畏怖の念を湧き起こさせるものだった。
新書ブームの中で常にいい企画を出すのは光文社新書と集英社新書なのだが、木村は集英社新書で『終わらぬ民族浄化』をものし、「ああ、ユーゴもだいぶ落ち着いたのかなー」などと考えている僕の能天気を木っ端微塵に破壊してくれた。行間から筆者の熱い気持ちがあふれてくるのだが、といっても決して鬱陶しいものではなくて、いまここで伝えなくては、という彼の真剣さが伝わってくる好ましいものだ。
『オシムの言葉』は、基本的に佐藤勇人を切り口にオシムの指導者像を描いている。僕が一番ヤラれたのは次の部分だ。
就任初年度、リーグ前期のジュビロ戦。そう、『U-31』の11話でジャベリン磐田(笑)と戦ってドローとなったあの試合だ。走りまくるボランチ勇人は最後の最後になっても味方の攻撃を信じてゴール前に駆け上がる。案の定、クロスが来て、思い切って叩き込み、そしてシュートは外れる。弱い弱い、といわれていたジェフが、当時リーグ最強といわれていたジュビロ相手に2対2のドロー、善戦だね、それにしても勇人のラストのシュートは惜しかった、というのが普通の反応だろうし、またそう考えて質問をする記者もごくノーマルな反応だろう。それに対してオシムは「シュートは外れることもある、それよりあの時間にあそこまで駆け上がっていたボランチをなぜ褒めてあげないのか」と返す。ミックスゾーンで記者からそれを聞いた勇人は「全身が痺れた、この人はどこまでも見ていてくれる」と感じるのだ。
この段落を読んだとき、勇人の感情がそのまま読者である僕の内部で再現されるような感覚を味わった。すごい、オシムってホントにスゴイ。勇人、よかったね、君の事を君以上に理解してくれる指導者はいたんだよ、ってオイオイ俺は勇人の叔父さんかよ。しかも書き手の木村元彦の筆力を感じさせるこのたった六行のパラグラフ。もう、イキナリ涙目になりながら、渋谷のカフェで読み続ける私メでありました。
教員をしている僕がこの本から学んだ、というか改めて感じたことは、何かを教えたり指導したりするときには、相手の内面を知り、しかし適度に距離を保ち、そしてブレない評価が必要だということだ。オシムが選手に接するとき、彼は決してブレないし、迎合もしない。また、ジェフに来た頃、ごく一部の人間を除いてオシムがすばらしい実績をあげてきた本当の知将だということは大して知られていなかった。選手がオシムに従ったのは、結果によってこれでいいのだ、と納得したからなのだ。
オシムはぶれない。それは彼がフットボールに対して非常な敬意を払い、そしてその真実の一端に触れるために日夜アタマを使い続けているからだ。オシムが畏れているのはフットボールの真実に対してであって、雇い主や選手やサポーターの一時的な反感を買うことは恐れていないのだろう。ちょうどテストやレポートの採点時期に重なったので、あらためてそんなことを考えた。
僕は比較的厳しい採点をする教員だと思われているらしいが、一方でアイツの採点にはブレがないと言われているようだ。これは元同僚の友達だった澤野さんから聞いた話で、澤野さんは人を幸福にさせるハナシをもたらすアカデミアのコウノトリなので、話半分に聞かなくてはいけないが(笑)、もしそうならそれはきっと、僕が自分の取り扱う学問を貶めてはいけないと考えているからだろうし、また、それを伝えようとする学生たち(の能力)を信頼しているからだと思う。僕は学生たちが自主的にガンガン参考図書を読んだり、勝手に調査研究を進めたりはしないだろう、という意味で「信用」していない。しかし、その能力は適切に道筋をつけたならば驚くほど伸びるだろうという意味で「信頼」している。信頼に対しては正確な判定と評価で応えるべきだし、また、明らかに不出来な答案に対して「A」をつけたとすれば、ラッキーと思うかもしれないが、学問や大学に対する学生からの信頼は失われてしまう。きっとそういう気持ちがあるから、僕は怒涛の新米だったころからやや辛めに採点するクセがついたのだと思う。
オシムは毎日、選手のコンディションを見てから練習メニューを決める。それは恐ろしいほどの引き出しがあるからだが、僕がゼミの指導で似たことをやっていてもそれは面倒くさがりだからなんですね。日暮れて、道のり遠し。