もどっちまえ】【先頭にもどっちまえ

アメリカ版サンデー毎日といえばUS NEWS & WORLD REPORT誌だ。ここは毎年受験シーズンが近づくと大学ランキング特集号というのを出してくるのだが、その中に一番お買い得な大学はどこか Best Buy Colleges という視点の記事がある。以前は学術ランキング上位で、しかし公立校だから内容の割りに学費が安いといったことで選ばれていて、バージニア大学あたりが一位になっていたことが多かった。

いまはもう少しインデックスに工夫を加えて、奨学金などの財政援助パッケージを平均学費から引いた平均純支出を分母にした比率を用いている。だから財務状況がよくて奨学金をたくさん提供している学術評価の高い私立大学などでもランキング上位になるようだ。実際、いくら公立校といえども州外から入学すると加算金を取られてちょっとした私大なみの学費を請求される。カリフォルニアのように留学生の多い大学だと何年住んでも州民扱いにはならず、入学するとずっと州外加算金(out-of-state tuition)を払い続けなければならない。アメリカの州立大学の学部教育は基本的にはその州の納税者のためにある教育機関であって、安い学費による赤字を拡大させないためにマスプロ教育が行われている。

さて、長々と書いてきましたが新学期開始を迎えてブログを書いている同業者がみんな鬱になっているわけです。で、学会でわにさんと話していて仰天。一クラス900名だの400名だのという授業続出で、テスト採点はそれはもう大騒ぎなのだそうだ。そんな話をしていると関西大の岡本さんが近寄ってきて、「ソウマエ君、そんなの当たり前」。うーむ、改めて履修人員を意識してみると、国立と私立というのはずいぶん違うんだな、と痛感した。

僕は中学、高校、大学とみな小規模の学校に通ってきた。中学高校は私立の学校で、表向きの学費は当時の都内で三番目に高い学校だったが、一学年が150名程度の規模だから、教師たちはみな全校生徒の名前を覚え、しかもノルマは最大でも週12時間(大学のコマでいえば6コマ)。やたらとレポートを要求され、しかしそれだけコマに余裕があるからじっくり採点されて返ってきた。勉強をするというのは調べることと書くことだ、と思い込まされたのはこの時期だった。父親が小さな町の不動産屋に勤める零細サラリーマンであるような僕の家計にとって、年間40万以上の学費は確かに重かったけれども、その中身については家族みんなで納得していた。

大学は一学年が230名で、法学部の規模としてはそれほど大きくない。まして法学部の中で政治を学びたいおかしな連中は少ないから、大嶽ゼミだろうが田辺ゼミだろうが希望すれば全員入れた。僕は実定法の授業を取らずに卒業単位をそろえるために学則上許されていた12単位、つまり三つのゼミを経て卒業証書をもらったが、知っての通り大学生活で教員と触れ合うチャンスはゼミぐらいしかないから、三つのゼミにいけばシンドイけれどもその分、密な関係を持てるわけだ。

僕の職場の琉球大学では一学年43名(05年入学から50名)の学生定員に対して教員ポストは10個ある。どの教員もやたらとレポートを書かせるからか、それとも政治学という枠組みの不安定な性質を嫌うからか、法学や経済や経営などの学生は僕らの講義をほとんど履修しないため、履修している学生は結局、PSIR専攻の学生ばかり。しかも学生たちは政治学系と国際関係系というのを分けて考えているらしく、政治系の講義をたくさん取るB班と国際系をたくさん取るA班に分かれてしまう。だから50名も履修している専門科目というのはほとんどない。こちらも思い切って

「レポート4000字を三本と期末試験で成績付けマース」

などと言える。他の教員も似たような負荷をかけるから、逃げ場のない哀れなPSIRの学生たちはハラを括ってコア科目16単位取得の荒野に旅立つ。「ナンダヨ、ソーマエ、クダラネーれぽーとタクサンダシヤガッテ」などと恨まれているのかと思いきや、マゾ気質丸出しの学生たちはこんなことまで言うのだからこたえられません(別に僕の講義の質は高くないけれど、三本書いて達成感あったんだろうなあ)。一度この学校で教員をやると、もう脱却できないです。

ところで先日、学内の就職関係データがまわってきた。すると、メディア関係や地元の銀行などの就職者数で言うと、僕らの専攻が法学を除く他学科・他専攻を圧倒していることが分かった。法学は地アタマのよいマジメな学生がそろっているから当然の帰結として、インターンシップだのキャリアデザイン関係の講義を熱心に設置している他の組織はそれほど健闘しているとはいえない。入試の段階では大括りで募集しているわけだから、社会科学系で政治系が特に優秀というわけでもない。政治学が実は実用的なガクモンなんだぜ、と言いたいところだが、そうでないことは明白だ。となると、結局のところタクサンヨマセタクサンカカセル僕らの教育方針がある程度功を奏している、つまりそうした学生が結局は就職先からも評価されていることになるのだろうか。

そうであって欲しい。

大学で教えて六年経ち、その間ずっと大学卒という学歴にどんな意味があるのだろう、と考え続けてきた。たぶん、それほどにはないかもしれないが、しかし大学教員は「大卒の学歴なんてイミネーヨ」と言ってはいけない。多くの入学者は学歴にある種の思いを込めて高い学費を払っているし、僕らはそのお金をもとに生計を立てている。さらにいえば、大卒でない人に閉ざされている門のいかに多いことか。大学にいる人間が大学なんてということは、欺瞞以外の何ものでもないと僕は思う。昔ほどではないにせよ、大学を出ることにいくばくかの優位があるなら、その優位を引き受けるにふさわしい学生を社会に送る以外、僕らに取れる責任などないではないか。

大学で得られる優位性。それは、同僚の星野さんが受験生向けPSIRサイトに書いてくれたように問題を構造化する能力と、それを他者に的確に伝える能力だと思う。僕らの行うレポート漬けは、学生たちの才能を引き出す契機であるようにいつも願っているし、今までのところそれは決して自己満足ではないように思える。

そして、僕らの学生がそのように育つのなら、本当はどこの学生であろうともそれ以上に育つのではなかろうか。学生たちは心のどこかで本気で勝負してみたいと思っているように思えてならない。同業者たちはどこかでそのような期待に応える努力をしようと思いつつ、彼らの目の前には400名の学生がいて、僕の目の前には20名の学生しかいない。

自分がどれほど幸せな環境にいるのか、学会に出ていてなぜか唐突にそう思った。いたみ君@杉村太蔵がポスターセッションで幸せな学会デビューを果たすのを目の当たりにして自分の来し方をふと思ったからなのか、それとも多くの同業者が厳しい環境の中で教育に悪戦苦闘しながらそれでもすごい研究を次々に出していることに打ちのめされたからなのか、よく分からない。ただ学会ではなぜか、すべての同業者にモーレツな敬意を覚えずにはいられなかった。このガクモンを選んでよかったとつくづく思っている。