もどっちまえ】【先頭にもどっちまえ

人間は誰でも成長の過程で「こうなりたい」と思う人を頭の中に描き出し、その人をお手本に自己形成をしますが、僕にとってのロールモデルは三人いました。一人は学問の師匠、もう一人はアメリカのジャーナリスト、デイビッド・ハルバースタム、そしてもう一人が大坪秀二・元武蔵高校校長です。

大坪校長は中学一年の幾何の授業を担当するので、中学から入った生徒は144名全員、高校編入生が34名なのでこれも全員、都合、全校生徒の名前を覚えていました。六学年合わせて千人弱の学校ですが、それでも一人一人を覚えているというのは大したもので、年末に東京でミニ同期会があったとき、一人一人のことを覚えている八〇過ぎの坪さんの姿に、あらためて畏怖の念を抱いたものです。今でこそ進学実績の低下から、

2chのお受験板でボロカスに言われる

武蔵高校ですが、同時に学外者で擁護的カキコをする人が結構いたりするので、「アカデミック」というある種のブランド力を持った学校ではありました。無論ブランド力というのが通例そうであるように、必ずしも武蔵の真価を反映したとは思いません。その教育課程は戦略的に優れていたということでは必ずしもないし、また、在校生の父兄に社会的階層の偏りがあるなど、問題点は多々ありました。

しかし83年卒業生(57期)で山川賞・山本賞を受賞した武部尚志(お茶大=物理)と桧垣達哉(阪大=哲学)ほか、180名の卒業生中かなりの数が大学教員になっているというのは、確かにある種の「武蔵っぽさ」の証左かもしれません。それを人格的に体現していたのが坪さんで、東大の物理を出た後、学者の道を選ばずに母校へと赴任し、自分でテキストを作って講義をするのです。そのテキストは、ユークリッドが作った『原論』をベースに開発されたもので、幾何の公理・公準・定理を一つ一つ教えていきます。ちなみに社会科には(世間的な基準で言うと)ワケのわからない教師がたくさんいて、そのうちの一人、カトカンは中一の政経のテキストに、岩波文庫の『植木枝盛選集』から「東洋大日本国国憲案」の章をひたすら一学期間教わり、学期の最後に植木作の『民権数え歌』を適当な節回しで僕が歌ったりしました。

近所の教育ママゴンが羨んでくれる程度にはブランド力のあった学校に行ったうれしさに、当時の僕は一番大事なものを忘れていたりします。そう、人間性の部分です。坪さんは、いつもそのことを始業式の場で強調していました。数学年上の先輩が、将来を悲観して自殺したあとの始業式では、壇上で絶句し落涙したのを非常に驚いて見つめた覚えがあります。

また、別の始業式では清掃のオバサンが亡くなったとき、学校から葬儀に参列した生徒が二名であったことを厳しく批判されました。普段お世話になった人の死に対して、それなりの弔意を示すことも出来ないのはダメだと、普段温厚な校長が厳しい口調で伝えたかったのは、人間として当たり前の感謝と哀悼の情を持て、ということでしょう。そのときの僕がいかにダメだったかというと、「なんでえ、坪さん、ずいぶん当たり前のことしか言わないじゃん」と感じていたことからお分かりでしょう。

しかし、彼は《校長のお説教》をしなかった。それは確かに感じていたのです。未熟ではあるが対等の存在に語りかけ、批判したのでした。例えば彼のそうしたヒューマニズムと、研究者の色を強くもった態度が、多分に僕の将来像へ影響を与えてくれたのだな、と今にして思います。

最近、法人化でバタバタとする学内にいると、不思議と坪さんの毅然とした態度が浮かんできます。上述の二つのエピソードはたまたま強く印象に残っているから覚えていますが、ではそれ以外に何を彼から受け取ったかというと、よく分からないのです。そして、よく分からないけどとてもいい先生、という印象が消えないというのは、よい先生の証なのかもしれないな、と考えたりします。

自分のこの部分はあの先生から教わったものだ、と言えるうちは、師の教えを完全に内面化していない状態かもしれない。もはやだれから教わったか分からないほど、あるいはその考えは自分のオリジナルである、と思い込むほど影響を受けた先生が、一番エライのではないか。そしてそのとき、教師の影響力はカタチを失い、教えだけが生き残っている、というのはすばらしいことです。

だから僕は、講義を受けている生徒たちが、僕のことなどいつか完全に忘れる日が来るといいのに、と思いながら講義をしています。いや、

パンキョーの政治学、すぐ忘れられちゃうよ

ってそんなのは言われなくても分かってらい!!そうじゃなくって、彼ら各自のもつ優れた政治分析や問題解決のセンスが、僕の教えたことを少しだけベースにして伸び、政治学を教わったことの意味は生きているけれども、僕のイメージがない状態。それこそ理想の教師のシゴトだなあ、と考えてみるゴールデンウィークの初日です。

いやあ、年度始めってのは気合入るなあ。どうせすぐ怠惰になっちゃうんだけど・・・。