夏休みに入って、久方ぶりに落ち着いて勉強に励む館主ソウマエです。掲示板には私淑するHiさんが登場されました。彼のポリシーから言うとよその掲示板に書き込むこと自体、はたまた自分のアドレスをマイクロソフトが提供するアカウントを晒すこと自体、ある種の決意表明なのだろうかと考えたりもしますが、春先からずっと、「美しい里の腔腸動物」への怒りと自らつづった作品への愛着を表明されてきた彼ですから、これはやはり並々ならぬ意欲を持って訪れてくれたのだな、と感謝しています。しかしHiさんのホームページは過去の美文(ほんとうに美しい語彙を使う人なのだ!)が収録されていないので、この人は一体どういう人なのか、といったことが少々わかりにくいかもしれません。その場合、私のリンク集から「宜野湾工科大学」に飛びまして、その中にいくつか残っているものがあるのでごらん下さい。
政治学に限らず、世の中のことを学ぶときに一番大切なことは、表を評価するのではなく裏を評価することではないか、と考えています。おっとぉ、そこのキミ!!勘違いしちゃいけないよ。「だなぁ、やっぱよー、人間、タテマエじゃなくって、ホンネで生きろってことよな、そこをドー評価するかじゃん?」というような、永渕剛的情念を言いたいのではないのです。そうではなくて、何かを評価するときに、言われていること、起きていること、好きなこと、利点、そういったことを評価するのも大事なのですが、逆に「言わなかったこと」「おきなかったこと(あるいは起こさなかったこと)」「嫌いなこと」「欠点」を評価する、ということがかなり決定的な意味をもつと思います。
先日亡くなったテレビ評論家(兼消しゴム版画家)のナンシー関は、「この人のここがなんだかなあ」というエッセイをたくさん書いていました。それを辛口評論家と片付けるのは浅薄に過ぎましょう。そうではなくて、彼女は嫌いなことを書いていく中でその裏面にある「好きなもの」を声低く語っていると考えるべきなんだと思っています。
例えば彼女は、「お笑いよサヨーナラ、性格俳優よコンニチハ」とばかりにお笑いから去っていった片岡鶴太郎をこっぴどく批判するのですが、かたや彼が演じた《たこ八郎》の演技に残る「ものまね魂」を正当に評価しています。また、お笑いをかっこいいこととして育ち、お笑いの人にたいするリスペクトを全開にしながらもちっとも面白くないKinki Kidsに対して冷淡です。お笑いは動機において純粋なだけではダメで、結果がともなわなければならない、しかし、(面白い!という)結果はまっとうな動機に支えられているのだ、とでもいうべき「正当なお笑い観」のようなものを一番言いたかったのです。死した彼女に真意を問うことは出来ないけれども、仮に生きていて「え〜、それは深ヨミじゃないかなあ」と言われてもいいんです。書かれた作品を読むときに、どのように解釈するかは読者にあって、誤読も含めて「どう読んだか」は、今度は読み手の責任において批判にさらされる、と言うわけでやんす。
しかしまあ、この、「何が言われていないか」という目で対象を見るということは、生きていく上では楽しいのですが、政治学なり政策分析なりのメシのタネにはなりにくそうです。かつてそういうことを真っ向からやっちまったバカラックとかバラッツとかクレンソンという学者たちがいたことはいました。でもって、CPSの残り香はまだ学界には多少残っているようです。実証分析というお作法に従って生きる現代の政治学者にとっては「なかなか面白い見方だ(った)よね」という以上の事を言い難いご時世ですが、しかしやっぱり「なされなかったことの重要性」というのは忘れてはいけないのではないかと考えた2002年の夏休みです。
【追記】書いてはみたのですが、アップロードし忘れて、本日(02年10月19日)にようやく載せました。さて、「久方ぶりに落ち着いて勉強に励む」などと書いたのは一体いつのことやら、というほど、夏休みは結果的に何も残りませんでした・・・合掌