今日もスポーツ話である。以前からゼミの飲み会などでよくアスリートの話を学生とするのだが、なぜソウマエはアスリートが好きかというと、それは彼らが自分の力でリスクを背負って生きているからだ。自分もそうありたいしそうでなくてはいけない商売をしているわけだが、自分のふがいなさに空気を入れるのにアスリートの活躍を見ている部分もある。
さて、ちょっと話はそれて村上龍である。『フィジカル・インテンシティ』という週刊誌の連載を文庫にしたやつがあるが、これの中で長野オリンピック直後に船木(ジャンプ)や清水(スピードスケート)に触れた文章があった。
村上龍というのは個人的に複雑な思いを抱いている作家だ。彼の評論の多くは、自らの思い込みに彩られ読み手の想像力をあまり刺激してくれない。経済に興味を持ち『あの金で何が買えたか』を書いた頃から、進学校時代のお勉強コンプレックスがようやく反転したような(村上の)解放感を見せ付けられるようで、気分がよくない。
村上の評論は「〜〜〜ない」という否定形が多用される。例えば「今そういうことを言ってもしょうがない」「この国の無知さ・・・は太平洋戦争の頃から何も変わっていないのだな、と思わされる」「『一人一殺の精神を持って敵戦力を撃滅せよ』のような命令と変わることがない」「具体的なアドバイスが何もない」といった具合だ。それが短い段落の中に何回も出てくる。これは、彼がイメージを先行させて、これに当てはまるような表現を選び評論をしてるから起きるのだろう。緻密な分析を元にして出てくる、厚みのある表現ではない。「あ〜あ、これだから日本はやんなっちゃうんだよな」ということを多少体裁よく表現しているだけだ。
ところが村上は時々鋭い切れ味を見せることを言うから困ったものだ。『69』とか『走れ!タカハシ』などがいい例で、青春のバカ騒ぎやスポーツのカタルシスをこの人は本質的には理解できていると思わされる。
村上は清水が長野で金メダルを取ったとき、「清水は非常にまともだった」「気負いもコンプレックスもない」「スリルを集中に変えられる」という、実に見事な観察を書いた。清水は長野で異様に集中し、あっという間に500mのリンクを駆け抜けて金メダルを取ってしまった。自国の観客が大量に見守る中、そして、3年前に代表に選ばれた中で結果を出さないわけに行かないというプレッシャーの中、勝ってしまったのだ。手のつけられない強さであった。ちょうどシドニーで高橋尚子が勝ったような爽快感があった。
勝ったから爽快なのではなくて、勝つ力を持った人が、勝つと決意して、レースをこなして本当にトップでゴールするという、一貫した流れに心を動かされるのだ。高橋尚子が金を取ったとき、他のスポーツ選手たちが呆れたような顔で祝福していたのがとても印象的だった。連中は勝つコトの困難さを知っているからこそ、高橋の偉大さが本当に理解できるのだろう。
清水は今回、秋の腰痛からずっと不調が続いていた。ところが一月に入ってから今季初めて34秒台を出し、復調をうかがわせる。そのあとは腰をかばってか一月下旬は平凡なタイムしか出さなかったが、たしかオランダのヤン・ボスなどは、「シミズは流している。本番だけを見ているに違いない」と戦々恐々としたコメントを出した。カナダのジェレミー・ウォザースプーンは何もコメントしなかった。あたりまえだ、ウォザースプーンにとっては打ち負かさなければいけない、しかし容易に乗り越えることのできない敵なのだ。「シミズを殺してでも勝ちたい」と思っていたに決まってる。
清水は結局フィッツランドルフのタイムを超えることができなかった。ほんのわずかでも負けは負けだ。しかしNHKのアナウンサーの一言は実に感激した。清水はアメリカのスケート界ではほぼ伝説的な存在になっており、ある選手など、清水と同じ舞台で滑ること自体が光栄だ、という趣旨のことを言ったのだそうだ。
それはほとんどセナの領域だと思う。そして、セナも全戦全勝ではなかった。毎年勝利していたわけではないし、特別強かったモナコでも6回優勝という前代未聞の記録は打ち立てたものの、毎年毎年勝利してはいなかった。
ソルトレイクの清水は大事なレースで負けた王者だった。彼はインタビューでこう言った。
今の状態で出せる全力は出した。だが、勝てたはずのレースだったから、完調で望めなかったことがとても悔しい、と。
この謙虚さと自分の能力への確信。村上龍は正しい。清水は栄光の頂点に立ってから4年経って、依然強く、依然まともだ。
日本人として誇りに思うという言い方はよくないのは知っているが、同じ時代に、その領域で超越した力量を持つアスリートが、同じ民族の中にいるというのはやはりうれしい。しかしそれ以上に、ロベカルを見てポケーッとするようなカタルシスを味わえるアスリート・清水はカッコよかった。ちょうど男子フリースタイルで呆れるほどの速さを見せつけたフィンランドのラハテラに陶酔したように。
アスリートは肉体の芸術だから言葉は不要だ。ナショナリズムからスポーツに入り、スポーツを通じてナショナリズムを抜け出ていくことの出来る文化なのだ。
でへへ、今日はちょっとマトモっぽすぎたかい?