もどっちまえ】【先頭にもどっちまえ

先日、仙台に出張した際、短い時間ながらなかなか会えないのだからというわけで、

学生バイオリニスト(本名竹内幸哉)と仙台駅三階のキリンシティで飲んできました。

竹内君は現在、代ゼミ仙台校などで働いていますが、講義のテクはちょっとしたところにある、というのです。

例えば、ナチスドイツがああしたこうした、という話をすると、

学生たちはぼんやり眠そうな目でこちらを見ているのでへこむ、と。

ところが、竹内君が「ヒトラーはこういう趣旨でかくかくしかじかの主張をしたんだよ」

といってから、一時的にヒトラーになってしまい、ナチスの主張を展開すると

さっきまでauのケイタイをいじっていた学生も突然興味シンシンで聞き出すんだそうです。

なるほど、まさに手練手管です。

前回の過程論講義で、イーストンの政治システム論の話をしたとき、

竹内君の言うケースとはちょっと違うが、

もし僕がバリバリのシステム論者なら、という設定で

あるケースを解釈してみました。

そうすると、やっぱり違和感が残ります。

うーん、キレイに説明はできるんだけど、なんかヤダなー、と。

そこで、さらに、システム論の批判者を登場させたり、

イーストンに落胆したといわれるベントレイに成り代ってみたりしたところ、

小生の乏しいノウミソはたちまち24人のミリガン状態になり、

教壇で黙ったまま、あらぬ方向を見ながら

「ばーか、違うだろ、デイビッド。それじゃあ規範的な方向性が全く欠如するじゃないか」

「あ〜あ、これだから集団理論はダメなんだよ。だいたいな、オマエラ亜米利加人は・・・」

「おいおい、イーストン君、ちょっと待て。わしも1907年に『統治の過程』を出版したときに・・・」

などと、突然わめきだしたものですから、

最前列の学生などは唇が紫色になっていました。

もちろんウソですがね。

で、我々はある理論家たちの理論を読んで、

分かったような気になっているけど、ホントにそれでいいのかな、と

フト思ってみました。

もっと内在的に理論を見る、言い換えると

学者(というよりは理論そのもの)の作り出したミクロコスモスに入り込んで

その内側から政治生活を見てみよう、ということですネ。

そうすると、あらら、なんだかこの理論、このへんが弱いな、

わかりました、ダール先生、いろいろお世話になりましたが

僕はシカゴでロウィ先生から勉強させてもらいます、ご恩は忘れません

などと頭の中で学問的家出などをしてみたりするわけです。

宙に向かってナミダを流しながら平伏する僕を見て、

当然宗前ミーは「ヤレヤレ、まただ・・・」と一瞥をくれますし、

次女の紫苑はよだれでべとべとになった飴玉を「あい」と言って渡してくれますから

家庭生活に特段の支障もないようです。

もっともこんなことは研究作法としてはアタリマエなのかもしれませんし

また、ここまでトランスしなくても

たいていの研究者は内在的理解を可能にしているのだと思います。

というわけで、

そっか、この手でやれば戦後政治学史の理解はバッチリじゃん、という

愉悦は16時間で終わりを告げたのでした。