もどっちまえ】【先頭にもどっちまえ

デイビッド・イーストンは言わずとしれた現代政治学の巨頭であり

サイバネティクスのイメージで政治を捕捉した政治学者だ。

イーストンはトロント大学で修士号をとったあと、アメリカにやってきた。

ハーバードで学位を取り、シカゴで教壇に立った。60年代のシカゴには

ロウィ、ピーターソンがいて、経済学部にはハイエクもいた。

まさに頂点を極めた政治学者イーストンは、

僕がアメリカに留学した1994年当時、なぜかUCアーバインにいた。

ここでカリフォルニアの州立高等教育体系について概略です。

カリフォルニアは、高等教育マスタープランに基づき、

州立総合研究大学 University of California =UC System

州立大学 California State Unviersities = Cal State System

短期大学 Community Colleges

から構成されているが、UCシステムは3500万人の人口を擁するカリフォルニア州の基幹大学である。

つまり、どの学校も学部とPh.D.プログラムを持つ研究主体の大学なのだ。

政治学で有名なのはこのうち、本校(バークレイ)、LA、そしてサンディエゴの三校であろう。

バークレイの医学部門であるUCサンフランシスコをのぞく残り5校、

すなわち、デイビス・サンタクルーズ・リバーサイド・サンタバーバラ・アーバインは

まあ一流の下というところだろうか。

ところがアーバインにはイーストンがいた。

おまけに政治文化論で名高いハリー・エクステインまでいた。

あげく仏文科にはデリダ(毎年春学期のみの客員)とリオタール(専任)がいた。

なんなんだよ、この学校

 

イーストンの政治学概論は院生一年目の必修である。ソウマエは交換学生なので

必ずしも学則どおりに履修する必要はないが、イーストンのゼミ、取らないわけないじゃん。

というわけで、10週間(UCIはクォーター制)、毎週3時間ずつイーストンのゼミに出席した。

イーストンはその頃70を過ぎていて、いつも柔和な雰囲気を絶やさないが、

人を寄せ付けないような独特の緊張感をもった小柄な老人だった。

「政治の構造structureは、となりで新築中の社会科学部のビルの骨組みstructureのように

目には見えないけれども、存在するんだよ」

「政治構造における人間は、青い構造を持つやつ、赤い構造を持つやつみたいに

識別はできないね、じゃあどうやって構造を引き出していけばいいだろうか」

と、面白い言い回しをしながら院一年目の学生に政治概念を教えていくことを心底楽しんでいた。

ある回、アルチュセールの社会構造の話をしていたときだったか、

僕が、自分の修論はピーターソンについてレビューしたものだけれども

彼はどのような契機で構造主義的な枠組みに影響されていったんだろう、と水を向けたら

「ピーターソンはシカゴの院生時代、私が指導したんだ。私がアルチュセールを読め、と彼に言ったんだよ」

とのお言葉。さらには有名な68年APSA総会の話をしながら

私が会長のときに、若手の研究者を中心に従来の行動科学的な政治学に背を向ける連中が

出始めたんだ。それからアメリカにもマルクス主義の分析手法が入ってきたんだよ」

と語った。

現代の政治学史を一人称で語る研究者、イーストン。

関西大学の山川雄巳によれば、イーストンは青年時代、カナダでかなり左翼的な運動に参加していたという。

イーストン三部作のエレガントなイメージとは一見結びつかないけれども、

国家概念への執着は生粋のアメリカ人ではなかなかもてないものなのかもしれない。

そう言えば国家論で有名なシーダ・スコッチポルも、彼女の父親が東欧系の移民だと聞いた。

 

イーストンがゼミで語ったことはほとんど忘れた。

90年に出た『政治の構造分析』も熟読していない。

ただ、イーストンのイメージはいつまでも消えない。

イーストンは政治学を学ぶものなら誰でも知っているビッグネームだ。

批判されたとはいえ、システム分析それ自体のイメージは政治分析の暗黙の前提でもある。

そんな悠悠自適の立場を許された彼が、

70を過ぎて、シルビア夫人亡き後も鬼神のように政治システム理論の完成を目指す姿は

そして自分の研究を、超一流ともいえない大学院に集った一年生に淡々と丁寧に伝達する姿は

クラスワークの膨大さに圧倒されてあと少しで尻尾巻いて帰国しようと思っていた宗前のやる気を

引き出してくれた。

毎週金曜日の午後、院生のためにゲストスピーカーを招くコンソーシアムという必修授業がある。

スコッチポルも来たし、チャルマーズ・ジョンソンも来た。

スコッチポルは田舎の中学の校長みたいな、エネルギッシュで早口の女性だった。

ジョンソンはちょっとあやしげな経営コンサルタントみたいな人だった。

二人が来たときも、イーストンは、定位置の最前列左側(笑)に座り、熱心に聴いていた。

僕はスピーカーよりも、鋭い視線でじっと話を聞いているイーストンばかり見ていた。

 

「そうか、キミは私のゼミにいたオータケが指導教授だったのか。

彼のことは覚えているよ。オータケは今どこにいるんだ?」

「東アジアからの留学生は、アメリカの生活と英語に慣れるのに少し時間が必要だ。

とにかくクリスマスまでがんばりなさい」

そういってくれたイーストンは、今年も大学院で教鞭をとっている。

一生かかっても僕がイーストンに匹敵する政治分析のキレをもてるとは思わないが

70を過ぎてなお研究に一路まい進する精神だけはまねたいと思っている。