沖縄タイムス「時事こらむ」2005年04月23日

格差問題と政治

私が大学生だった頃はバブル景気の最中だったので、景気のいい話にあふれていたし、また日本は実はスゴイ、と妙に威勢のいい空気も濃密だった。例えば社長とヒラの給与格差が10倍しかないのに爆発的な経済発展を遂げた日本社会は、内外問わずに賞賛されていた。

どうもその常識が怪しい、となったのは、2001年に出版された社会学者・佐藤俊樹(東京大学)の『不平等社会日本』によるところが大きい。その後、労働経済学者の大竹文雄(大阪大学)の反論が提出され、論争が進んでいく。

例えば高齢化が進むと、賃金の低い若年サラリーマンは少なく、年功序列によって賃金が高止まりする壮年は多くなり、世代間の平均所得差が大きく見える。もしもいまの若い世代が年をとってから期待通りに高い賃金を手にすれば、深刻な格差は存在しない。少なくとも現時点で格差が固定化されていると断言はできない。

とはいえこの論争の中からいくつかの問題も浮き彫りになった。ひとつは「学歴の相続」問題で、親の職業(階層)が子供の学歴に強く固定的な影響を与えているという知見だ。平たく言えば、「親が大企業のサラリーマンである子供は、そうでない子供よりも大学に行きやすい」ということだ。悪名高きペーパーテスト至上主義と全国一律の義務教育は、出身階層に関係なく同じ内容を学び、合否は成績の良し悪しだけで決まるのだからある意味で公平だった。その日本ですら学歴の固定化がおきつつある、というのである。

もうひとつは、正社員とそれ以外での雇用には気の遠くなるような格差があって、労働の流動化が起きていないわが国では、最初の就職が将来を決めかねないことだ。正社員も生涯安泰ではないが、30歳までフリーターだった人が一発逆転を遂げる可能性は、いかなIT社会といえども容易でないし、事例として多くもならないだろう。

大学教員として、教室にいる学生たちはどうか経済的な安定をつかんでほしいといういささか下品な願望と、こんな社会でいいのかという社会科学者としての問題意識の間に葛藤は絶えることがない。

こうした状況を打開するために直接的には安定的な雇用を拡大させるほかはない。同時に非正規就業と正規就業の賃金格差を制限する(例えばオランダのワークシェアリングのような)法律上の対応も必要かもしれない。しかし少なくとも短期的にはそのいずれも容易でないことを考えると、さしあたっては社会的な連帯を支える仕組みをきちんと整備しておくことが大事なのだと思う。

それは充実した公立学校や文化施設、安心できる医療機関や福祉施設、優れた環境保全などで実現されるだろう。効率的に運営し、同じ税金で多くのプログラムを供給しなければならない。そうすることで最終的には「私たちは同じ社会に生きているのだ」と実感できるのである。

これはキレイゴトではない。そうしない限り遠くない将来に社会は崩壊してしまうことを意味している。社会の矛盾を愛国心で抑え込めば、9.11以降のアメリカ社会のようなグロテスクなモデルに近づいていく。教育の現場で愛国心を教え込むより、大切で切実なことはたくさんあるのに、と「愛国心」をめぐる記事を目にして嘆息する日々だ。