沖縄タイムス「時事こらむ」2005年03月26日

政策センターとしての道州制論

生まれてから大学に進むまで住んでいた埼玉県の所沢というまちは、東京の新興住宅街として成長していたので、毎年1万人ずつ人口が増えていた。自分の住むまちが大きくなるのはナカナカ興奮するもので、子ども心に「大きいことはイイコトだ」と思った。大きければいろいろなことができる、国に負けない「立派な」行政体ができる。言い換えれば田舎にあって小さい自治体には人材もいないだろうしオカネもないし、そんな自治体にはたいしたことはできないと思い込んでいた。

実際にはどうだろう?例えば乳幼児や高齢者の医療費を最初に無料化したのは岩手県の寒村、旧・沢内村だった。沢内の医療改革は、さらには地域予防医学の徹底へとつながり、手厚い医療給付を実行しながら国保財政はずっと黒字であり続けた。

環境問題、特にごみ問題でわが国の先頭を走るのは水俣病の汚名を返上するために奮闘を続ける人口三万人の水俣市である。水俣は極めて細かい分別収集を行い、その規模の小ささと地方都市には特有の強い地域連帯を武器に、環境意識の徹底を成功させた。あるいは積極的情報公開で全国に行政の先進性を知らしめたのも小さな辺境の自治体、北海道のニセコ町だった。

いずれも先にあげた意味での「立派な」自治体ではない。むしろ「立派な」自治体であった東京は、沢内の始めた乳幼児・老人医療費の無料化を、予防という前提条件が未成熟なうちに導入したために後には「バラマキ福祉」とまで酷評された。

公共政策の立案で大切なことは、いま地域にある切実な問題を丁寧に分析して解決しようとする姿勢だ。規模が大きければ、理論の上では財政の余裕が生まれ、優秀な人材が頭角を現す余地も広がるハズだ。しかし、規模が大きくなれば自動的に優秀な人材と財政の余裕が生まれてくるわけではない。そこには必ず財政規律を強める仕組み、優秀な人材が伸びてくる仕掛けの双方があるし、なければ見てくれがどれほど立派であろうとも内実を伴う政府は出来ない。

道州制論議が活発化する中で、もちろん沖縄の地位が問題にはなるだろう。単独でいくのか九州の一地域となるのかはこの島に住むものとして切実な問題だ。福岡が沖縄を気にしてくれるかどうかは率直に言ってかなり疑問だから、私個人として、沖縄は単独州でいく以外の選択肢から沖縄の将来を見出すことは難しいと思っている。

結局のところ「未来を見出せるかもしれない選択肢」は政策形成ゲームの中のルールのようなものだ。ゲームに勝つためには、いいプレイヤーがいていいプレイをしなければならない。ゲームのルール変更(=道州化)を期して人材が自動的に輩出されるわけではないのだ。先にあげた先進地は、今ある状況の中で最大限の努力をしてきた。だからこの先ルールが変わってもそれに対応した戦略を打ち出すことができる。

今の制度のもとでさんざん苦労しながら努力を重ね、それでもうまくいかない部分があるから道州制というルール変更を自治体側から求めたわけではない。だから私たちは道州制が導入された場合の自治体のあり方については、あまり楽観せず、常に政策形成センターであるべき自治体に主権者として注文をつけ続ける必要があると私は考えている。