沖縄タイムス「時事こらむ」2005年02月26日

説明責任という考え方

いつの頃からか「説明責任」という言葉がよく使われるようになった。「説明」も「責任」も分かりやすい言葉だから、説明責任という概念も「要するにキチンと説明して相手に納得してもらうことだ」と理解されやすいが、本来の意味、つまりアカウンタビリティーの概念とは少し違う。

大きな組織が何か仕事をするときには、当然に多額の費用を必要とする。ましてそれが新しいプロジェクトであれば、うまくいくかどうかがよくわからないから、これだけのお金をつぎ込んでそれに見合う成果が出るのか、ということは慎重に検討される。言い方を変えると、不確実性リスクと便益のバランスを考えるということだ。

支出してもよいかどうか(アカウンタブルか否か)を総合的に考慮し行くかやめるかを決める判断が、歳出に際して必要とされる「説明」であって、決して相手の情に訴えて納得してもらえばよいといった情緒的な概念ではない。あくまでもオカネの使い方として妥当かどうかを問うものだ。その基準は効率性であったり、有効性であったり、あるいは緊急性であったりはするだろう。場合によっては「均衡ある発展」のような公平性を重視した判断もある。

企業の場合、それは売り上げであったり、シェアであったり、利益率であったりあるいは企業イメージ形成であるといった把握しやすい結果で判断される。プロジェクトは、将来の売り上げを見込んだ借金や、過去の利益の蓄積から賄い、つまりは消費者が負担する。また百発百中でなくとも会社トータルで利益が上がればよいわけだから、野球に喩えれば、三振を恐れてバットを振らないよりも、三回に一回大当たりをすればそれでヨシということもある。

しかし政府部門のプロジェクトに必要なお金は結局税金によって賄われる。補助金・交付金・地方税は現在の国民が、国債や地方債は未来の国民が負担している。だから、公共部門の説明責任は全国民を対象にする分だけ企業における説明責任よりも厳しくなければならない。

また企業と違って、機会ロスを避けるためにトータルで得になっているなら個別の案件でムダもやむを得ないという話にはならない。この点でも公共部門に求められる説明責任は重いのである。

もちろん、政策や事業を計画する公務員も神ならぬ人間だから、間違えること、トレンドを読み違えることはある。そのために、政策評価という制度を整備して、事を実施している最中であっても進捗がはかばかしくないならそれは何か計画に無理があるから再考する(あるいは止める)という仕組みがなければならない。つまり間違いは小さいうちに摘み、より大きなロスを避けるということだ。

今回辺野古の従来案が事実上撤回された案件について考えたのは、役所においては通常、やかましく言われるはずの進行管理が全く機能していないのはなぜだろう、ということだった。進行管理は歳出額と事業自体の進捗の双方を見ることで、正しく立てられたハズの計画が正常に動いているかをチェックする。もし異常があれば、計画か進展のいずれかまたは双方に問題があったということだ。

たとえそれが安全保障のような「高度な国益」に関することであったとしても、私は政策の合理性を追求する諸手段の適用に「聖域」があってはならない。むしろ、通常の政策判断プロセスに耐えられるようなものでなければ着手するべきでないと私は思っている。