沖縄タイムス「時事こらむ」2005年12月25日

公務のリアリティと研修

役所で不祥事があったとき、研修を強化して再発防止を図るのはよくある対応策だ。こうした報道を目にすると、あまのじゃくな私ならこう考える。(1)何年も経って依然として正邪の判断ができない人に何を教えても無駄(2)善良な公務員にとって分かりきった内容。だとすると、この種の研修に「反省ポーズ」以外の意味はないことになる。

知っている人(講師)が知らない人(受講生)に対して知識や技能を教え授けることが研修だと考える人は多い。新技術の習得あるいは財務システム変更に対処する講習会などは必要なことだし、その際、研修効果は受講生に理解が及んだか否かで測られる。だが貴重な時間を費やして行われる研修の目的はそうした知識習得だけではない。いまふうに言えば「気づきの契機」であり、組織内部へのメッセージでもある。

琉大に着任する前の三年半、私は福島県にある公務員研修所で嘱託教授をして大学院生活を賄っていた。社会人経験のない単なる理論家の卵が教壇に立つのだから戦々恐々だ。果たして「生徒」たちは優秀で見識の深い現職公務員ばかりだから勤めてしばらくは教えることの焦点が絞れなかった。そのうちおかしなことに気づく。

言う必要もないだろうが念のためにと開陳するようなことに彼らは深い反応を示す。それは住民視点に立った政策立案の必要性や、効果検証の重要性、あるいは住民ニーズの具体化といった甚だ初歩的なことなのに、そこは抜け落ちていたのだ。人数も減り、行政も高度化しているから職場に戻った彼らの机の上には未決済の書類仕事が山ほど溜まっている。とにかく処理すること。そうした業務の反復は、いつしか円滑な事業執行が任務だという錯覚すら起こす。それは目的達成の段取りであって、目的それ自体ではありえない。

公務員として脂の乗り始めた三十代前後の職員は、こうした理論的な話を真剣に聞いていた。彼らもわかっていたのだ、自分たちが業務に追われるあまり広い視野を失っていること、それでは分権時代の公務員としてやっていけないこと、明日役立つ知識でなく将来にわたって活かせるような骨太の視野が必要なことを。職場を離れた研修(Off-JT)は業務の延長では身に付かない視野を得る絶好の機会なのである。

福島の研修には新人から上級管理職まで全職員の研修に政策理論の講義を入れ始めていた。たかだか数時間の研修で政策形成の「奥義」など身に付かないが、これまで自己流で暗中模索していた人にとっては「そういうことか!」と何かが脳内でハジける機会にはなるし、少なくともすべての研修で政策理論の講義が行われる以上、それは「分かっていなくてはいけないことだ」という組織の意図は伝わるだろう。冒頭に例示した倫理研修というのは気づきと周知という二つの意味で(限界はあれども)それなりの効果はある。

政策形成能力とは問題把握能力であり、解決のためのチャートつまり仮説構築ができる能力だ。それがあって初めてアイディアはリアリティを持つ。こうした能力の有無は官民を問わず「経営」というものの本質に関わるから、人材育成に企業はかなりの投資を行うし、時間もかける。自治体の多くはこの点で非常に遅れている。それは研修の問題であるとともに、各自治体で明確な人材育成政策が実はないからだと私は考えている。