沖縄タイムス「時事こらむ」2005年11月27日

2002年4月に宮城県ではわが国で初めて行政評価条例が施行された。当時、政策評価の最先端といわれた三重や北海道ではなく、宮城が条例化一番乗りを果たしたのはなかなか面白いことだ。宮城県が行政評価に着手したのは他県と比べて早くも遅くもない98年ごろで、行政活動全体を評価する仕組みが整ったのは2001年だった。早いどころか遅れをとっていた宮城が、猛スピードで先頭ランナーに追いついたのには理由がある。

私は大学院在籍中からいくつかの審議会委員に就いたが、評価委員会の運営は他の会議とはっきり異なっていた。第一に役所側は腹案を用意しておらず、委員たちは全くのフリーハンドで審議に臨んでいた。第二に役所側が行政情報をあっさり公開する空気だった。

審議に際して事務局(県庁の所管課)が最終的な結論を用意し、そこに着地するためのアリバイとして審議会が機能するのはよくあることだ。宮城の評価委員会はちっとも「オトナ」でなく、事務局職員は委員たちに「真剣勝負でお願いします」とよく言っていた。それが委員の議論に強い使命感を持たせたのは言うまでもない。
行政評価というのは結局、事前にどういう図面を描いて事業や施策に着手し、それがどう進展したのかを自ら監視することである。行政活動の内実を率直に記載できるのは当事者にしかできないことだ。外部評価者はそうした自己評価がお手盛りでなく行われたかどうかをチェックするために存在する。

宮城の評価書も当初は内容に問題のあるものが散見された。ただ、皮肉な言い方になるが、おかしな隠蔽などせずに堂々と提出し、批判は素直に受けて立つという態度は評価されてよい。

宮城県は選挙資金不正で前知事が在職中に逮捕され、続いて新任だった浅野史郎知事を食糧費スキャンダル(カラ出張や公費での職員の飲み食い)が襲った。浅野は県民の怒りを充分に理解し、すべてを公開する姿勢をとることで事態を収集した。その結果は?以後、宮城県は情報公開透明度トップとして知られ続けている。

宮城は93年から95年にいたる二年間で、やましい隠し事をすることの苦痛、それが発覚したときに起きる激しい信用失墜から充分に学んだのだ。だから行政活動の評価とは、すなわち自分たちが県庁職員としてそれぞれの部署で「立っている位置」を明らかにすればいい、批判は受ければいい、反論があればすればいいと考えた。さらには県の基本的な取り組みだから、法的根拠をしっかりさせよう、重要な仕事だから知事が変わっても続けよう、と考えて条例化したのだろう。

いまや鳥取県を除くすべての都道府県で行政評価は導入されている。うまくいっている県もあれば名目的にしか運営されていない県もある。本当は財政の自律性があってこそ評価も血肉の通った制度になるのだが、少なくとも宮城は情報公開のツールとして評価制度の持つ潜在力を活かしている。いま、自分たちが県民に対して向き合えることを愚直に行ってきた姿勢というのは、自治の責任を果たしている姿勢と呼べるだろう。