沖縄タイムス「時事こらむ」2005年10月23日

確かに非難されても仕方のない役所の対応というものはある。だからお役所仕事だの横並び意識だのという言葉は、だいたいがヨクナイモノとされている。こうした風潮が蔓延している役所はよろしく改革するべしという「正論」にはなかなか抗えない。

競争によって効率性向上を重視する市場原理主義的な立場からすれば、役所というのは百害あって一利なし。規制緩和を行い、「民」が活躍する余地を増やすと同時に「官」が介入する余地をなくすアメリカ型社会が彼らにとってはひとつの理想形である。

そのアメリカでは20世紀の初頭、「官僚的」という言葉は改革を意味していた肯定的趣旨の言葉だった。官僚的なら法律や基準に従ってビジネスライクに、プロとして問題を処理するだろう。今なら「硬直的」とか「冷たい」とされる官僚制の特質は、当時は政治が行政に過度に介入するのを排除・改革する論理だった。

理屈は単純だ。法治は人治よりも透明度が高いから、その分公平だ。市長が自分の子分で固めてしまう人治主義的人事(こういう仕組みの市役所を「マシーン」と呼んだ)より、ある仕事に必要な能力を明示し、採用試験を実施して選抜した方が高度な専門家を採用できる。後に大統領となるセオドア・ローズヴェルトたちは、このような主張で20世紀初頭の「市政改革運動」を推進した。

切実な悩みや問題を抱えて役所に解決を訴える側からすると、前例やルールを杓子定規に当てはめる役所の人々の対応は「お役所仕事」に見えても仕方がない。一方、役所は公平性を重んじる。問題を何とかしたいが、使うのは人々から預かった公金だ。全体利益の実現に努めたい。この問題の解決に何か前例はないか、ルールに明記されていないか。なければ残念ながら却下だ。公平さに慎重を期そうとする役所の態度は、それなりの筋が通っている。
だが、である。もう少し何とかならないのだろうか。つまり、お役所仕事を非難する側、される側の両者に架け橋のようなものはないのだろうか。

最近知ったのだが、「学習する組織」と言う考え方が経営学理論の中にある。構成メンバーが常に学習し続けるような組織を作ることで競争力を維持すると言う趣旨だ。その中には形のない知恵(暗黙知)を形のある情報(形式知)に変えていくことも含まれる。いや、経験によってなんとなく身についている暗黙知の価値は認め、そうした経験を伝達可能な形に出来るか否かで、組織の真価が問われるのだ。

役所庁内にとどまらず地域全体の学習にまで発展するならば、その地域は強力な競争力を持つことになる。行政の素人である住民が意見や感情に込めた何かを、行政のプロは読み取る。真意を汲んでくれるという信頼のもとに住民は率直な要望を役所にぶつける。

地域のシグナルに形はないが、それこそが地域づくりには重要だ。それを読み取る力が「地域力」だと私は思っている。こうした力を持つ役所は、解決を目指す点で「官僚的」であり、地域づくりの「真意」を読む意味で柔軟な組織である。地域の問題を解決できる自治体には必ずこの両者が備わっている。